
12月議会で、お隣の南房総市において、『日本政府に「核兵器禁止条約(TPNW)の参加・調印・批准を求める意見書」の提出』を求める請願が提出され、総務委員会では採択されたものの、本会議では否決されたことが新聞等でも報じられました。
館山市においても、同様の請願が9月に提出され、委員会審査で不採択、本会議においても否決という結果となりました。私もその際、反対票を投じた議員の一人です。
議員は、何かしらの圧力があるのでは?と感じる人もいるようですが、そんなことはありません。私自身の頭でじっくり考えました。本稿では、その判断に至った理由を書き残しておきたいと思います。
まず、戦後80年を迎える今、核兵器の脅威や戦争の惨禍を、直接体験していない世代に伝え続ける活動は、極めて尊いものだと考えています。悲惨な歴史は、語り継がなければ忘れ去られてしまいます。二度と同じ轍を踏まないためにも、私たちは歴史に学び続けなければなりません。
私は昨年、広島市を視察した際に、広島平和記念資料館にも足を運びました。展示を前に、涙が止まりませんでした。被爆者の方々の苦しみは言うまでもありませんが、平日にもかかわらず、世界中から多くの人々が訪れていた光景に、強い衝撃を受けたからです。
そしてその帰路、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル賞を受賞したというニュースを知り、大きな喜びを感じました。世界が核兵器廃絶を願う思いを共有し、また一歩前に進んだ――そんな希望を抱いた瞬間でした。
館山市にも、戦争遺跡を通じて全国から平和学習を受け入れている団体があります。こうした方々による草の根の活動や国際交流こそが、核兵器禁止へと向かう最も大きな力であると、私は今も変わらず信じています。
そのような中で、今年9月にこの請願が提出されました。私のことを知る方であれば、当然賛成するだろうと思われたかもしれません。哲学を学んできた者として、ユートピア的な理想が、私の中にも深く刻まれているからです。
しかし、現在の私は一人の市民ではなく、「政治家」という立場にあります。個人的な思いがあったとしても、それをどのように現実の政策として実現するのかについて、責任を負わなければなりません。
そこで本稿では、まず日本が現時点でTPNWに批准できない理由や、その背景を大きく整理した上で、私自身の考えを述べていきたいと思います。
1.平和都市宣言と「国に批准を求める請願」は別物
平和都市宣言は、自治体としての理念や意思を示す象徴的・道義的な表明です。
一方で、TPNWの「批准を国に求める」請願は、国の安全保障政策そのものに踏み込む具体的な政治要求です。この二つを同列に扱うことはできません。
2.現実の国際社会では、兵器は外交カードとして機能している
理想として核兵器は存在すべきではありません。しかし現実には、核兵器や軍事力は、いまだに国家間交渉における抑止力・外交カードとして使われています。そして、TPNWに核保有国がどこも批准していない。
「なぜ核がなくならないのか」という問いの答えは、ここにあります。
3.日本の安全保障の前提は「日米安保と核の傘」
日本が核兵器を保有せず、戦後一貫して東アジアの安全保障の中で存立してこられたのは、日米安全保障条約のもと、米国の核の傘に守られてきたからです。
これは理屈ではなく、現実です。
4.核の傘の下にいながら批准を求めることの矛盾
TPNWの条文とその解釈、そして日本政府・有識者の評価からすれば、「日本がTPNWを批准すれば、現行の米国の核の傘に依存し続けることは条約上ほぼ不可能であり、実質的には核の傘から外れることになる」とされています。
つまり、
「核の抑止力に依存しながら同時に」
「核を全面否定する条約への批准を求める」
この立場は、道義的にも、政策的にも矛盾を抱えています。
5.批准後、日本はどうやって国民を守るのか
最も重要なのは、ここです。
仮に日本が批准した場合、
・中国との関係はどうなるのか
・台湾有事のリスクが高まる中で、どう抑止力を維持するのか
・他国から軍事的圧力を受けたとき、本当に「平和外交」だけで対応できるのか
これらに対して、一貫した説明が示されていません。
6.政治家の第一義的責任
政治家の最も重要な責務は、国民の生命と財産を守ることです。
もし国に対して条約批准を求めるのであれば、批准した後の安全保障を、矛盾なく説明できなければならない。
それができない要求は、残念ながら「理念は理解できるが、政策としては無責任」と言わざるを得ません。
7.全国での採択状況と議論の問題点
全国の自治体の約4割で、この請願が採択されています。
しかし、議場での討論を見ていると、「核兵器は大量破壊兵器であり、唯一の被爆国である日本が率先してなくすべきだ」という主張に終始し、
「では、核で脅された場合にどうするのか」
という核心的な問いに答えられていません。
この点を避けたまま要求することは、私にはできません。
そもそも、国の外交はその特性上、非公開の情報も多く含まれます。ニュースや新聞の報道は二次情報ですから、一次情報を知り得ない地方自治体の政治家が、この判断に介入できるのかという、根本的な壁があります。
国際法に訴えることや同盟国との外交手段に訴えることは「重要な選択肢」ではありますが、「核で脅された場合に、それだけで国民の生命と財産を守れるという実証的・制度的な根拠は、現時点では存在しない」
――というのが、現実に即した評価です。
8.誤解を避けるために
最後に補足します。
私は、民間による核廃絶運動や平和活動を否定するものではありません。むしろ、戦後80年を迎える今こそ、戦争の悲惨さや核の破壊力を語り継ぐことは極めて重要です。ただし、
・民間の運動と
・政治としての意思決定
この二つは同一ではありません。
政治は、理想だけでなく、現実のリスクと責任を引き受けたうえで判断しなければならない。その立場から、私は今回の請願に反対しました。
***ここからは、完全な私見です***
◾️人間は、そもそも争う存在である
ここからは、さらに根の深い話になります。
私たちはホモ・サピエンスです。ホモ・サピエンスは、ネアンデルタールなど他の人類種を駆逐し、地球全土に広がりました。攻撃的で残虐な種族だったからこそ、今のわれわれが存在するという、一種の矛盾に遡ります。
言葉や思想を持ってからも、戦争がなかった時代はありません。
「人殺しはダメだ」と教えながら、国家による殺し合いを正当化する。
20世紀初頭のドイツの社会学者、マックスウェーバーは「国家は正当な暴力を独占する装置」と表現しました。警察や自衛隊も国民を守るためですが、根本的には国家がもつ「暴力装置」です。
この構造は、すでに、17世紀の思想家トマス・ホッブスが著書『リヴァイアサン』の中で、冷徹に描き出していました。
ホッブスは、人間は本来、理性的で善良な存在ではなく、恐怖と欲望に突き動かされる存在だと喝破しました。国家が存在しない「自然状態」においては、人は互いに不信と恐怖に支配され、「万人の万人に対する闘争」に陥る。そこでは、生命は「孤独で、貧しく、嫌悪すべき、野蛮で、短い」ものになると述べています。
この果てしない暴力の連鎖を止めるため、人々は自らの力を一つの権力に預けました。それが国家であり、ホッブスが聖書の怪物になぞらえた「リヴァイアサン」です。国家は、人々の暴力を集約し、独占することで、逆説的に社会の秩序と平和を成立させる存在なのです。
つまり、国家そのものは、争いを終わらせるための次善の策でした。
◾️教育や理性だけでは、戦争は終わらなかった
18世紀に入ると、啓蒙思想家は、理性と教育が人間を暴力から解放すると信じました。
しかし、識字率が急激に上昇しても、戦争はなくなりませんでした。
独裁政権でなければ、リーダーは国民が選ぶものです。つまり、いかに学ぶ機会に恵まれても、いつ何時も他国が攻め入ってくるかわからない、備えねばならないという危機感は払拭されませんでした。この傾向は海で囲まれた日本と異なり、国同士が隣接する大陸国家の方が圧倒的に強いと思われます。
この人間の本性と歴史の現実を直視しなければ、平和は語れないと思います。
◾️それでも、諦めてはいけない
だからといってもちろん、諦めてよいとは思いません。
一政治家としては、今置かれている立場をできるだけ正確に伝えること、そして決して退行しないことです。
理想は、到達点ではなく、退行を防ぐための方位磁針としても働きます。
日本が取るべき道は、現実を直視したうえで、
・自国の防衛力を適切に保ちつつ
・同時に、外交努力に最大限注力し
・理想と現実のあいだで、崩れない均衡を保ち続けること
だと私は考えています。
これから国際安全保障がどのように展開するのか、本当のところは何もわかりません。しかし、各国でやはり戦争がいかに悲惨なものかを深く認識し、熟慮する国民が増えることが何より惨禍を避ける道だと思います。
◾️まとめ
― 私がこの請願を採択できなかった理由 ―
私は、核兵器廃絶という理念そのものを否定していません。むしろ、被爆国日本として、その理想を語り続ける責任があると考えています。
しかし、理念を国の政策として実行するには、その後に生じる現実的なリスクと責任を、矛盾なく説明できなければならない。
核兵器禁止条約(TPNW)の批准を国に求める以上、
・日本の安全保障はどう変わるのか
・日米同盟と核の傘はどうなるのか
・周辺国からの軍事的圧力に、どう対処するのか
これらに対して、現時点で十分な説明が示されていないと、私は判断しました。
また、地方自治体の議員は、国の外交・安全保障に関する一次情報を持ち得ません。二次情報だけで、国家の根幹に関わる判断を国に求めることには、慎重であるべきだと考えます。
一方で、民間による核廃絶運動や平和活動、国際交流の意義を、私は決して否定しません。
むしろ、それこそが核兵器を「使ってはならないもの」にし続ける最大の力だと信じています。
政治と市民活動は、つながっていますが役割が異なります。
政治は、理想だけでなく、最悪の事態を想定し、それでも国民を守る責任を引き受ける行為です。
人間は、残念ながら争う性質を内包した存在です。
だからこそ、平和は自然には訪れません。
不断の努力と、現実を直視する覚悟によって、かろうじて保たれるものだと思います。
TPNWへの態度を巡って、賛否は分かれるでしょう。
しかし、どの立場であっても、「なぜそう考えるのか」を語り合い、熟慮することこそが、戦争という最悪の選択を遠ざける唯一の道だと、私は信じています。