プロフィール
東 洋平(ひがし ようへい)
館山市長須賀在住、39歳。千葉市稲毛区出身、地元の小中卒業後に県立千葉東高校へ。高校では音楽活動に没頭し、幼馴染の事故や障害と向き合う経験から上智大学哲学科へ入学。同大学院修了後に館山市に2011年、移住。無農薬の田んぼオーナー制度や地域ラジオのパーソナリティーなど地域活動を実践し、ライターや記者業を経て2023年、館山市議会議員に初当選。北条海岸ビーチマーケットの事務局長として官民協働を推進する。
以下、乱筆ながら生い立ちや館山での活動をまとめました。「ひがしって何者?」という方は、ぜひご一読いただけたらと思います。
6人兄弟姉妹の5番目
父は九州出身で製鉄会社のサラリーマン、母は袖ケ浦市出身の専業主婦、6人兄弟姉妹の5番目という環境に生まれ育ちました。
千葉市稲毛区の基本的には都内で働く家族のベッドタウンのようなまち。特に見どころもないですが、生活しやすい場所だったと思います。また、両親は自治会や学校への花生けなど、地域振興に積極的でした。
わが家の兄弟姉妹はアトピー性皮膚炎が多く、私も季節の変わり目などに関節や胸あたりに湿疹が出る体質でした。そのため、母は食生活に力を入れて、オーガニックの食材で育ちました。
アトピーとは、ギリシャ語で「奇妙な」を意味する言葉でして、「現代病」は一体どこからきたのか? と湿疹をかきむしりながら考えたものでした。こうした経験がのちに食の安全を考えるきっかけを与えてくれたと思います。
ちなみに、アトピーは館山移住の直後までありましたが、2年目にはなくなっていました。
小中は文武両道、目立ちたがり屋
宮野木小学校、緑ヶ丘中学校と家から歩いて5分ほどの学校に通いました。小学2年生から友人の誘いで地元のサッカーチームに入ってからというもの、土日もサッカー三昧の日々を送りました。
小中学校は生徒会活動や応援団長を務めるなど文武両道、元気いっぱいな子だったと思います。中学校当時の先生に、「自分が中心になると集中力を発揮する」などと何かに書かれた覚えがあります。
6人兄弟でかわいがられて育ったせいか、とにかく自己中心的、目立ちたがり屋だったですね、きっと。久しぶりに、この卒業アルバムを開いて「あ~」と呆れました。
恩師、友人に恵まれて、伸び伸びと成長した少年期。将来の夢を書いた文集をめくると、「医者か弁護士」を目指していたようです。その理由は、「ただ生きるのではなく人のためになりたい」と書いているので、大体根っこの部分はこの時期に形成されたのでしょう。
音楽との出会い
その後の人生は音楽との出会いで大きく変化していきます。初めに衝撃を受けたのは、館山が生んだ世界的スター「X JAPAN」です。もう解散後でしたが、友人からCDを借りて、のめり込んでいきました。
続いて中学2年生の夏の深夜、テレビをつけるとアメリカの「ウッドストック1999」が流れていました。強烈なサウンドと人の波に目が釘付けになり、しばらく動けないような衝撃を受けたことを覚えています。
高校に入ると大好きだったサッカーも1学期で退部し、バンド活動、音楽三昧の生活に。ギター教室に通い、ブルースやロック、ヘビーメタルなどさまざまな曲を習いながら、稲毛駅前のライブハウスに入り浸りました。
そんなこんなで折角の進学校なのに、完全に落第生。そのため、大学受験もたいして目標もなくあえなく敗退。
浪人生活が始まりますが、正直なところ音楽の道に進むか、進学するか、いわゆる「モラトリアム」にはまっていたように思います。そこで起きたのが、幼馴染のS君の事故でした。
幼馴染の交通事故と障害
S君は近所に住んでいた一つ年下で、幼少期から毎日のように遊んで、サッカー部も一緒。高校では私がやっていたバイト先を引き継ぐほどの仲でした。
しかし、ある日そのバイト中にトラックにはねられてしまうのです。意識が戻らず、植物状態に。友人らと、テープに声を録音し、耳元でずっと聞かせました。
3か月後、彼は意識を取り戻します。喜びもつかの間、複雑骨折で苦しいリハビリが始まり、足に障害が残ることに。あんなに好きだったサッカーもできなくなりました。また、脳高次機能障害と認定されました。
うまく人とコミュニケーションができなくなると、多くの友人が彼から離れていきました。この苦しい現実から逃れようと、彼は何度も自殺未遂を繰り返しました。私ができることは彼のもとを訪れ、話を聞くことだけでした。
彼は今も障害と付き合いながら生きていますのでご安心を。一方、それまで自由奔放に生きてきた私でしたが、彼との対話の中で、人の死や生きる意味とはたと向き合うことになりました。
哲学探究と音楽活動
そこで入学したのが、哲学科です。同時に音楽活動も活発化させていきました。2年次からは仲間とともに都内の防音室付きのアパートを借りてロックバーでアルバイトをしながら音楽制作に打ち込みました。
哲学では、「実存」に理解を深めると同時に、アメリカの現代哲学者、S.K.ランガー女史の「シンボルの哲学」に導かれ、研究に没頭しました。最終的に大学院に進み、「芸術とは何か」というテーマで論文もいくつか執筆しました。哲学の話はまた別の機会に書きたいですし、「哲学カフェ」をぜひ館山でも実現できたらと思います。
さて、仲間と過ごしたシェアハウスの生活ですが、私の学部卒業と同時に解散することになりました。毎晩のように哲学、音楽、文学などを語り合ってきた末に、(哲学探究とも連動する話なのですがここでは手短に)、地方への移住を考えるようになりました。
なぜ、館山に移住したのか
一つは、そのころの社会情勢としてリーマンショックもあったり、大学の友人が自殺したり、経済的な停滞感、生活の閉塞感も含め、都内での暮らしが肌に合わなかったこともあります。
また他方、昔から両親が気遣ってくれた食の安全から始まり、食料自給率のこと、農業の衰退、中央集権的な構造、地方の課題などなど芋づる式に問題意識が広がり、「世の中おかしいぞ」ということから目を背けられなくなっていました。
そんな時に、音楽制作でレコーディングに向かった先が、館山だったのです。2010年に計10回ほど通ったと思います。スタジオは北条海岸近くにあり、海岸線で休憩しては、その景観に癒やされ、ほれこんでいきました。
同じ県内なのに初めて鋸山を越えたのですが、これほど近くに雄大で美しい自然環境があったことに驚き、いつしか移住を志向するようになりました。
まだはっきりと先の未来を描いていたわけではありませんが、諸々の課題意識に挑戦するには(同じ県民ですし)、もってこいの環境であることを確信し、またいつかS君を呼んで一緒に農業をやりたいという夢も芽生えました。
2011年の大学院卒業と同時に引っ越しを決めます。運よく、館山でのイベントで市議会議員と知り合い、その方の紹介で広い古民家を借りられることが決まるなど、とんとん拍子に話は進んでいきました。
東日本大震災の混沌から
しかし3月11日、東日本大震災が発生します。ますます日本の未来に危機感を覚えながら、それでも私の方向性に間違いはないと信じ、移住に至りました。4月5日だったと記憶しています。バンドのギターの仲間とともに引っ越したので、そこまで不安もありませんでした。
一方、レコーディングスタジオでの勤務を想定して移住したものの、震災で音楽関係の仕事は激減し、代表の方は被災地支援に奔走していたので、支援活動から館山生活がスタート。7~80人の大きな団体で石巻市に向かいました。
そんな混とんとした中で始まった館山での生活。活動内容は細かく書くと終わりそうにないので、以下に主なことを時系列で並べたいと思います。
主な館山での活動
①Awanote発刊とAWA市の開催
移住後すぐに、「芸術と農業」をテーマにしたフリーペーパーの制作に取り組みました。旧南房パラダイスでの自主企画のマルシェイベント「AWA市」と連動しており、計3回開催しました。アーティストや生産者などさまざまな人に話を聞いて記事をまとめる内容で、今さらながら同じことをしているなと思います。
②若者集まる音楽祭「あわのネ」に参加
地元の若者らが2010年から開催していた音楽イベント。2012年の開催から実行委員のメンバーに加わりました。我が家の古民家が会議の場となり、連日連夜たくさんの若者が集い、和気あいあいとアイデアを交えました。あわのネは10回まで開催して、終了しますが、このイベント育んだ出会いは底知れないものがあります。
③館山市観光協会でのライター活動
Awanoteがきっかけで、当時観光協会が募集していたライターの仕事に声を掛けていただきました。館山の知られざる謎を解く「たてやまGENKIナビ」というbayfmの番組と連動した情報発信の企画で、今も「花海街道」というサイトに移管されて読むことができます。計1年半の仕事でしたが、この調査活動が私の原点になっています。
https://hanaumikaidou.com/#question
④田んぼオーナー制での米作り
自分で米作りしたいという願いを叶えてくれたのは、お隣の農家さんと、田んぼオーナー制を実践していた南房総市のNPO法人。無農薬での栽培方法にこだわり、田植え、草取り2回、収穫を参加必須として、都内の家族や企業にご利用いただきました。若者数人の有志で運営していましたが、それぞれ本業も忙しくなり、5年で解散。新規事業を軌道に乗せる難しさも体感しました。
⑤地域ラジオのパーソナリティー
観光協会のライターを担当したことが縁で、館山のNPO法人が運営していた地域ラジオ番組のパーソナリティーを担当させていただきました。毎週一回、地域の旬な話題をテーマに関係者をお呼びして1時間ほどお話を聞く内容で、毎回充実した時間を過ごしました。今や発信する手段は当時よりも増えているので、いつか「館山発信基地」を復活したいと画策。
⑥ライターとして独立・開業
無印良品のローカルニッポンという地域課題にフォーカスした媒体のライターを担当することになり、独立。同サイトでは100本ほど安房の記事を書かせていただきました。また、南房総市の「新しい働き方講座」では、ライターの講師を務めさせていただき、地方での時間や場所を選ばない働き方の可能性を感じました。
⑦北条海岸ビーチマーケットの事務局長
2016年から北条海岸で始まったマルシェで17年に事務局長にお声掛けいただきました。当初は10店舗ほどの規模でしたが、民間の事業者と市職員で何度も会合、開催を重ねること、2019年に100店舗の規模に成長しました。コロナ禍で約2年休んでいましたが、2022年に復活して春、秋開催ともに約6000人の来場者となりました。
https://hojo-beach-market.jp/
⑧房日新聞記者に
ローカルニッポンの取材が縁で、2019年から房日新聞でもライターとして記事を書かせていただきました。同年、台風災害が起き、私もより地域のことを知りたい思いがあったので2020年から正社員として記者に。地域の話題だけでなく行政も担当し、ベテラン記者の「視点」も学ぶことができた大変充実した期間でした。
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がむしゃらに突き進んできた館山生活ですが、根っこにあるのは、「世の中おかしい」という危機感と、「できることから立て直したい」という挑戦心にあります。一連の活動の延長戦に出馬の覚悟を決めました。今後の地域社会は行政と民間が手を取り合わねばならないこと、そのためには市議が重要な仕事を果たせるのではないかと思います。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。