
第30回安房地域母親大会に参加しました。定員150人の第一集会室が立ち見の盛況ぶり(オンラインも含め200人超)、内容も素晴らしくインプット過多に陥っております。素晴らしい大会だったと思います、運営の皆さんに感謝、本当にお疲れ様でした。

館山市森づくり大使でもある高田宏臣さん、作家・哲学者の永井玲衣さんの講演後、「話合い広場」で隣に座った方々と3人1組で対話も体験。その後、夜は永井さんによる哲学対話も開かれました。

以下、レポートというより所感です。
高田さんは、令和元年房総半島台風後の沖ノ島の再生活動や、安房大神宮の森コモンプロジェクトについて新聞等で拝見していたのですが、「コモン」というぐらいだから、もしやマルクス主義や斎藤幸平さんにもつながる話かと思いきやさにあらず。非常にフランクで会場大笑いありの人柄がにじみ出る講演。
土中環境は水と酸素と有機物の循環で成り立っているモデルから、現代の土木の在り方、海と森の関係など分かりやすく教えていただきました。現代土木、便利さを否定するのではなく、そこに有機土木のエッセンスを投入し、さらに人を育てていく姿勢に共感しました。この講演も全国から多くのファンが集まっていたようです。
永井さんは、「暴力に抗して」と副題を添えて、哲学対話を語りました。学校や自治体、企業、被災地、路上などさまざまな依頼を受けて全国を行脚する永井さん。

「対話は大事ですね~」と表向きで誰もがいうが、「実際に対話をしたいか?」と問うと多くの人はやりたくない、していない現実と向き合っています。
では、なぜ人は対話が苦手なのか? 「人はそもそも共に考えることに慣れていないばかりか、傷ついているのでは?」という問い。
対話は、気の知れる人同士の会話や会議の話し合いとは違います。
では、なぜ人は対話が苦手なのか。自分と異なる意見と対峙し、自分が否定されたり、うまく自分の意図が伝わらなかったり、そんな経験ありませんか。
その後の夜の場でも話題に上がりましたが、日本は対話を学ぶ場が少なく、いわゆるディスカッションが苦手とされてきた背景を思い出します。それが今では、小学校では哲学対話が教科書に出てきて、道徳の授業でこれを実践している学校もあるようです。
哲学対話のルールは、
1. 聴くこと
2. 偉い人の言葉を使わない
3. 人それぞれにしない
実はこういう語らいの場は、日常には生まれづらい。ある学者が、ある本がこういってるから、と権威を借りて持論を補強することはよくあることです。科学的根拠は重要ですが、それを導き出す私の「本音」はどこにあるのでしょう。
哲学対話の基本は、「問う」ことです。しかしこれまた、我々は「問う」ことにも慣れていない。永井さんは、「問うこと」と「問い詰める」ことは違うとも話していました。
そもそも答えありきだから、相手を論駁しようとするから問い詰めてしまう。そんな会話に疲れたから諦めてしまう。答えに収れんする対話も醍醐味ですが、無理にまとめる必要もないのが哲学対話の大前提です。
印象深かったのは副題に関連する、「問うことは抗うこと」。
「○○だから仕方ない」と、諦めることも多くないでしょうか。「本当にそうなのか」と問うことは、実は誰にでもできる抗いだという新しい発見。歴史上の差別については、当事者の問いが社会を変化させたのでした。
そして、誰しも問いがあるが、表現する場がないのではという視点。SNSでは限界があるでしょう。人が対面で話すとは、文字と異なり、表情、間、声色といったたくさんの情報を共有しています。
だからこそ、永井さんは全国を行脚して、今日のように見ず知らずの人たちを前に、対話の意味を語り、他者をつなぎとめているのでしょう。

約20人が参加した夜の哲学対話の時間には、各々単純な問いから心の奥底にある本音を問いにしました。中には最近の出来事を語って涙する方も。
人は普段、何らかの社会的な仮面をかぶって「私」を演じる実存です。情報が氾濫し、社会が縮小に向かうこのフェーズで、哲学対話の意義を改めて感じる日となりました。