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三田啓一さんを振り返って

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今年も12月26日を迎え、年の瀬が迫ってきました。この一年を振り返る中で、どうしても書き残しておきたい出来事があります。

今年6月、三田啓一さんが亡くなられました。
私にとっては、あまりにも衝撃的な出来事でした。

三田さんは、館山に移り住まれてまだ3年余り。知る人ぞ知る存在で、多くの方が深く関わったわけではなかったと思います。

けれども、この1年半から2年ほど、私が三田さんから学ばせていただいたことは、今私が取り組んでいること、そして今後の展望の、極めてコアな部分と深くつながっています。

年末を迎えるにあたり、三田さんについて、一本の記事として振り返ってみたいと思いました。

三田啓一さんとはどんな人だったのか

三田さんは、83歳で亡くなられました。
もともとは「東京市政調査会」という、由緒ある研究機関で長く活動されていました。

東京市政調査会(現・後藤安田記念東京都市研究所)は、第7代東京市長・後藤新平が、当時ニューヨークの市政調査会に学び、日本に帰国後、安田財閥の支援を受けて設立した、日本でも極めて独立性の高いシンクタンクです。

三田さんはそこで研究部長を務め、晩年には早稲田大学でも文化構想学部や政治経済学部で教鞭をとっておられました。

しかし、後日奥様から伺った話では、60代後半、仕事を引き受けすぎた結果、過労で倒れ、医師から「すべての仕事をやめるように」と緊急のドクターストップがかかったそうです。
そこから10年以上に及ぶ療養生活が続きました。

本人の努力とリハビリによって再び歩けるようになり、第二の人生として選ばれた地が、館山でした。

地方自治のスペシャリストとして、全国の自治体を見てきた三田さんが、なぜ館山を選んだのか。実は、とても趣味人で、釣りや登山、キャンプと、さまざまなアウトドアを好んだ方ゆえの、環境への直感と、まちづくりにも、まだまだ可能性を感じたからだと語っていました。

東京・杉並に実家があり、距離感としても程よかったのかもしれません館山に家を購入し、晴耕雨読のような生活を送りながら、新たな人生を歩まれていました。

私と三田さんの出会い

私と三田さんの接点は、家のリノベーションを担当した大工さんが、私の知人だったことから始まります。市議会議員に当選した2023年の12月、三田さんが私に強い関心を持ってくださり、「論考を書いたので読んで感想を聞かせてほしい」と連絡をいただきました。

正直、面識もない方から論文を送られることに戸惑いはありましたが、届いた封筒の中には「自治的コミュニティ」についての論考が入っていました。

三田さんのご厚意で原稿をスキャンしてアップさせていただきます。よかったらご覧ください。

少し古風な文体で、学術的な内容でしたが、3ページほど読んだところで、「これはすごいことが書いてある」と直感しました。すぐに全文を読み、電話をすると、とてもフランクな声で「一度、館山の家に遊びに来ませんか」と誘われました。

2024年1月、初めてご自宅を訪ねたとき、穏やかな笑顔と、昭和の学者らしい風格が強く印象に残っています。

最初に投げかけられた言葉は、今でも忘れられません。

「東さん、地方自治の本旨とは何でしょう?」

憲法にある「住民自治」と「団体自治」。
即答できなかった私に対して、三田さんは少しからかうように、

「そんなことも知らずに市議会議員に出たんですか」

と笑われました。

「まちづくり」とは何か

三田さんから学んだ中で、最も衝撃的だったのは、「まちづくりとは何か」という問いでした。

私たちは日常的に「まちづくり」という言葉を使います。行政の補助金事業、イベント、各種施策。けれども、その定義は実は非常に曖昧です。

三田さんによれば、「まちづくり」という言葉が初めて使われたのは1950年代で、三田さん自身が編集に関わっていた『都市問題』が最初だと言われています。

戦後、焼け野原から復興する過程で、下水道も福祉も未整備だった時代。当時のまちづくりは、行政に対する切実な要望活動でした。

やがてインフラが整い、1970年代には人口減少が予測される中で、「これからの街をどう維持するか」という議論が始まります。その中で生まれたのが、「自治的コミュニティ」という考え方でした。

勉強会でも一度講師をしていただいたことがあり、直前のショット。とても楽しかったと話されていた

最小単位は旧小学校区。顔と顔が見える関係性の中で、住民が自分たちの生活を自分たちで支えていくエリアです。

自治会や町内会は、行政の受動的役割が強く、祭りなどの伝統行事を営みますが、主体的に事業を生み出す構造ではありません。人口減少の中で、そのバランスはすでに崩れてかけています。

だからこそ、行政に丸投げするのではなく、住民が担える部分を担う「自治的コミュニティ」が必要であり、まちづくりの核心になるのだと教えられました。

公民連携ゼミ館山でも一度講師にきていただきました。その時の様子はこちらの記事にもあります。

https://note.com/ppp_tateyama/n/n066d08d486a8

総合計画と住民自治

私が総合計画審議会の委員を務めていたこともあり、三田さんは「総合計画とまちづくりは表裏一体だ」と強く語っていました。

役所が作った計画を承認するだけの審議会、少し修正するだけのパブリックコメントでは、住民参加とは言えない。住民が主体的につくる地区別計画がなければ、協働のまちづくりにはならない。

住民が「こういう町にしたい」と語り、提案し、関わる。
そのプロセスこそが、町を自分ごとにしていくのだと。

最期の時間

今年3月頃から体調を崩され、入院されていましたが、6月初旬、重い肺炎に罹患し「あと数日しかない」という連絡が入りました。亀田総合病院へ向かったのは、亡くなる前日でした。

意識ははっきりしていて、手を握られながら、

「東くんには、伝えたいことは全部伝えた。あとは頼むよ。実現しろよ」

そう言われました。

「哲学の話もしたかったね。プラトンやアリストテレスの話を」

と天井を見つめながら語っておられました。

三田さんは、無宗教で、海への散骨を望まれました。
最後に届いたメッセージには、

「千の風ならぬ、千の波となって、海から皆さんの活動を見守っています」

とありました。

これからも高い山がいくつもあると思います。
それでも、三田さんと交わした約束に、誠実に向き合い続けたいと思います。

短い時間でしたが、本当にありがとうございました。